人間の価値

人間の価値は何で決まるのかは、定義できない。人それぞれに指標があるからだ。しかし、人間として何も成長しないまま年齢を重ねてきてしまったひとは、客観的に見て価値があるとは思えない。

 

50代後半の派遣社員は、人間として終わっている。先ず、自分で調べるということを全くしないのだ。何も考えずに人生の時間だけ重ねてきた結果だろう。勿論仕事も出来ないし、周りから煙たがられている。ただ、本人にはその自覚が無いのだ。意味のない時間をずっと過ごしてきたから。生きている意味や人生の価値についてどう考えているか聞いてみたい。多分、何も考えていないのだろうが。今の日本は優しすぎるため、どこかであのタイプの人間は一斉処分するべきである。

生きる価値

久しぶりの更新。

人が生きる価値について、今まで出会った人間を例に考える。

自分は人間が生きる価値は、様々な形で周りに貢献することだと考える。ここでの周りは、家族や友人等の無償で自分を必要としている人ではなく、社会システムの中での貢献を指す。税金を納めるでも良いし、他人に感謝される、幸せにするでも良い。どれか1つで良い。それができていない人間は本当に許せないし、生きる価値があるのか疑わしい。

 

①クソ派遣野郎

 このクソ派遣野郎は、体調不良を理由に週に3度は休み、その休んだ分も取り返そうとしないゴミだ。そいつが職場にいるだけで周りに迷惑がかかる。しかも、病気が理由だから仕方ないと開きなおす始末。救えない。生きる価値はない。

 

②窓際社員

 こいつも病気や様々なことを理由に仕事をしない。まあ、元々能力が低いのもあるが。今の日本をダメにした象徴のような人間だ。定年間近で周りの若手から煙たがられるのが恥ずかしくはないのだろうか。生きる価値はない。

 

他にも挙げれば切りがないが、このような生きる価値のない人間達によって、正常な人間は日々多くの迷惑をかけられている。選民思想・優生思想の私からすれば、早く駆除してほしいものだ。

教育と洗脳

教師は特段に優秀な人間ではなく、教育と洗脳が紙一重であるというのが私の考え方である。これは私の経験に基づいており、学生時代から今でも変わっていない。勿論、こんな考えを口外することはないが。

基本的に教師は頭の良い生徒よりも、自分の言うことを聞く素直なイエスマンの生徒が好きである。それどころか、頭が良い生徒は教師よりも優秀であることが多々あるので、教師を見下すようになり、それに連動して教師がそのような成績が良い生徒を嫌いになるという悪循環が生まれる。しかし客観的に見れば、教師のくせに生徒である自分よりも頭が悪い人間の言うことを誰が聞くのだろうか。成績が良くて、相手がどのような人間かをよく観察する生徒は、このようになる傾向がある。これは生徒が悪いのではなく、馬鹿な教師が悪いのだ。そのような生徒は馬鹿な教師など相手にしないで、自分が認める人間の助言を聞くことがベストなのだが、なかなか理想通りにはいかないだろう。

 

私の経験談を1つ書こうと思う。高校時代の部活の話しだが、女顧問のAは非常に感情的で人間的にも最低ランクの人間であった。教師として本採用されておらず、講師として私の学校で働いていた。体育教師であり、部活の顧問が生きがいのような人間で、部活の時間にとても注力していた。しかし、人間的に頭が悪く、偏差値もFランの様な大学の出身であり、教員採用試験に受からないのも納得であった。受からないのは当然としても、あんな底辺を講師としても採用してはいけなかったのだ。感情的になると話が通じず、嘘も平気でつき、教師と生徒という立場を利用して自分の意見を全て通してきた。しかも最悪なのが、自分の1つ上の代の先輩に頭の良い人がいなく、明らかにおかしいことでも認めてしまうことであった。後輩からは言いにくいし、後輩を守るために自分が顧問に意見しようという人が居なかったのだ。体育会系の底辺に多い現象である。卒業した後も、あの人たちはろくな人生を歩んでいないであろう。底辺の人生を歩んで、悲しく生きていくしかないのだ。まあ馬鹿だから仕方がない。自分が先輩の立場だったら、絶対に顧問に意見していた。そのようなことができなかったあいつ等は、人間のゴミである。顧問も頭が悪いので、底辺の人生を歩むことになるであろう。色々な人から恨まれているであろうから、物騒なことになるかもしれないし、幸せな人生は送れないだろう。

親と子

企業には、親会社と子会社というものが存在する。世間ではよく、子会社は親会社のやりたくない金にならない仕事をさせられて、同じような仕事をしているのに給与も低いと言われている。私は、実際に就職するまでそれを感じたことがなかったが、実情はやはりその通りであった。しかし、それも仕方ないことだと感じている。

 

まず、親会社と子会社の人間を比較したときに、9割9分親会社の人間の方が優秀である。ここで言う優秀というのは、勉強ができる, 資格を多く持っているということではなく、人間性が親会社の人間の方が高いのだ。親会社の人間は、謙虚で容量が良く、何事も及第点以上にこなせる人間が多い。対して子会社の人間は、自分が能力が高いと勘違いしていて、自分の無能さを棚に上げて周りに責任を求める人が多い。つまり、社会で求められる能力が、親会社の人間の方が高いのである。さらに、勉強や資格といった要素と社会で求められる能力は勿論正の相関があるので、結局全てにおいて親会社の方が優秀なことが多い。だから、同じ仕事をしても親会社の人間の方が給与が高いのである。

 

加えて、親会社の人間は子会社を下に見ていることが多い。勿論口には出さないし、ビジネスパートナーやグループ会社といった体のいい言葉を使っているが、実際は下請けや子会社として認識している。これを良いか悪いかは別にして、構造上当然の見方である。だからそもそも子会社の人間は眼中にないし、ひどい人になると同情までしている。それに気づいている子会社の人間は親会社を敵視してくるが、そもそも子会社と分かって入社しているのだから、お門違いもいいとこである。それが嫌ならば、他の所に行けばよかったのである。しかし、能力が低いがゆえにそのような考えには至らないのだろう。

 

子会社の人と関りを持って、自分もあのようにならないように日々精進していかなければと思った。今回はそんな決意と備忘録の記事である。

 

 

 

 

最後に

最近Sからのしつこい連絡が止まず、会わなければいけないところまできている、どうすればいいのだろう

無能なSに時間を使いたくはないのだが・・・

まあいつも通り数日に1回しか返さない連絡で、当面の時間を稼ぐとしよう

そして、もし会うことになってしまって、そこでもSが変わらず無能な責任転換雑魚野郎だったとしたら、記事のネタができたと思ってまた更新しよう・・・

バイアス

人は物事を、自分の見たいように捉えるという話しはよく聞く。世間一般でいう"バイアス"である。これは誰しもが持っているいわば人間の性質の一つであり、完全に取り除くことは困難である。また、"バイアス"があるからこそ上手くいくこともあるだろう。しかし、物事を客観的に判断するということについては、"バイアス"は邪魔になる。しかも厄介なのは、この"バイアス"は人によって程度が違うのである。

 

最近、前の記事でも触れたSから連絡がきた。近々会わないかと言われたが、適当にあしらっておいた。Sは非常に"バイアス"が強い人間であり、物事を全て自分の都合の良い形で解釈する人間だ。例えば、何か上手くいかないことがあった際には、たとえそれがS自身の責任でも、"バイアス"がかかって

 

「○○だから、しょうがないよね?」

 

といった具合に責任転嫁をするのである。さらに他人の同意に、自分の"バイアス"のかかった考えが正しいという論拠を求めてくる。私はそのようなSが非常に面倒だったので、全て同意して適当に返していた。すると、Sは私のことを自分と同じ考えを持つ気の合う友人とでも思ったのか、金魚のフンの様に付きまとうようになってきた。私が作業していて連絡を返さなかったりすると、話しを聞いてもらうためだけに私の所を訪ねてくるのである。そもそも連絡もせず、アポなしで来ることもある。非常に迷惑である。世界は自分を中心に回っているという"バイアス"でもかかっているのだろうか。

 

どうせSのことであるので、会ってもいつも通り愚痴を聞かされて、最後には"バイアス"がかかった自分は悪くない理論や周りの人たちのせい理論に行きつくのであろう。Sはよく、

 

「数年後には○○(一流企業)に転職する」

 

などとほざいているが、そもそも低能のSには無理な話であるし、転職を考える前に今の会社でお荷物にならないように自分の能力を向上させることが重要だと思うが、"バイアス"が非常に強いSにはそんなことは1ミリも考えつかないのであろう。

 

なぜSはこのようになってしまったのだろう?周りからは煙たがられ、能力も平均以下という救いようのない人間である。先天的にあのような性格であったのなら、親や友人(居るか分からないが)が指摘してあげるべきであった。後天的に"バイアス"がかかってしまったのなら、周りの環境と本人のスペックの低さが原因なのだろう。どちらにせよ、もう性格を矯正することは難しいであろう。少なくとも私は諦めている。(そもそも友人ではないので、そこまでする義理もないが)

 

とりあえずSの連絡は適当に流して、会わないようにしよう。自分の周りの環境で、自分で決めることができる数少ない要素が人間関係であるので、私はもっと会う時間を有意義と思える様な優秀な人々と付き合っていきたいと、Sからの連絡を見て思った。

就職活動

就活をしている大学生の間では、就活の採用はどの様な人を取ろうとしているのか、そもそも採用活動で優秀な人を取れるのかという話題がよく出る。自分もそのような話しをよくしたし、優秀な人が取れるのかは疑問だった。しかし、自分の身の回りを見渡すと、前述の採用活動はそこそこ意味のあるものであると感じるようになった。

理由としては、私の周りの地雷のような人はほとんどが上手くっていないからである。就職先が決まっていないというパターンもあれば、明らかにブラック企業のような企業に勤める人もいる。他にも、実力に見合っていない企業を受けている人は、たとえどんなに早めに就活を始めた意識高い系であっても、大したところに就職できていない。良い企業に入った人が全員優秀とは思っていないが、優秀なのに良い企業に就職できない人は私の周りでは皆無だ。どのような尺度でその人間の能力を測っているかは分からないが、現在の採用活動の基準は、少なくとも私の周りでは正常な形で行われていると感じている。

そして残酷なことに、このような機会があるために、優秀な人の周りには優秀な人が集まりやすくなる。その逆も然りである。世の中はうまくできているものである。

Sの呪い

この間ふと思ったのだが、私の知り合いの中でイニシャルがSの人は、低能が多い。備忘録として、今日はそれを書いていこう。

 

まずS1だが、そいつは勘違い人間である。自分が優秀な人間の要素であると思っていて、周りの人たちを下に見る傾向がある。私から見ればそいつは才能が全くない低能であり、自分が向いていない分野にずっとこだわっている。そいつがその分野で仕事をするということは、周りの優秀な人に迷惑をかけることなのである。低能な味方が最も怖い敵なのだ。そいつとは絶対に一緒に仕事をしたくない。さらに常識もなく、様々な形で周りの人に迷惑をかけている。自分が人に迷惑をかけることしかできない低能であると早く気づいてほしいものである。

 

次にS2だが、こいつも自分が優秀だと勘違いしている人間である。また非常に攻撃的であり、アスペも入っている。会話が成立しない。そいつの周りにいる人たちが可哀そうである。S2の周りにいるひとたちもきっと、あいつを嫌っていることであろう。多分あいつは仕事も決まらないであろう。社会に出ない方が社会のためになる人間だ。

 

最後にS3は、自分の低能が招いた結果をすべて人のせいにするゴミである。私もその愚痴を何度も聞かされたが、すべてS3の能力の低さが招いた結果である。まあ、結果として三流の結果しか残せていないのも納得だ。S3はいままでどのような人生を歩んできたのだろう?あれではきっと周りの人たち全員に嫌われているであろう。早く縁を切りたいものだ。低能のくせに周りに責任転換をして、ずっといきてきたのだ。これからもまともな人生は送れないであろう。

 

以上のS1,S2,S3は、低能が故に周りを不快にさせている足手まといである。しかも全員がそれに気づいていないため、厄介である。私はこいつらのような人生を歩みたくはない。きっと優秀な人から煙たがられるのは辛いだろうから。いや、奴らはそれすらも気付けない低能であった。